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名古屋高等裁判所 平成4年(ネ)43号 判決

甲事件控訴人

甲野一郎

乙事件控訴人亡甲野武夫遺言執行者

甲野一郎

右両名訴訟代理人弁護士

田畑宏

黒木美朝

甲・乙事件被控訴人

九鬼和女

右訴訟代理人弁護士

平山正和

主文

本件各控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人らの負担とする。

事実及び理由

第一申立

(控訴人ら)

原判決を取り消す。

甲事件につき、被控訴人の請求を棄却する。

乙事件につき、被控訴人は、原判決別紙物件目録第二記載の各不動産について、津地方法務局熊野支局昭和六三年四月二七日受付第一三〇七号所有権移転登記の抹消登記手続をせよ。

訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。

(被控訴人)

主文同旨

第二主張

当事者間に争いのない事実と争点は、左に訂正するほか原判決事実及び理由の第二事案の概要に記載されたとおりであるから、ここにこれを引用する。

原判決二丁表末行「甲野武夫」の次に「(以下「武夫」ともいう。)」を、同丁裏一行目「甲野まつえ」の次に「(以下「まつえ」ともいう。)」を付加し、「別紙物件目録」を「原判決別紙物件目録」と読み替える。

第三証拠〈省略〉

第四争点に対する判断

一〈書証番号略〉、原審証人速水文子、同谷口なぎさ、同濱地滋子、同南照夫の各証言、原審における被控訴人本人尋問の結果を総合すれば、次の事実が認められる。

1  甲野武夫は、明治四二年一月一〇日生であり、昭和一三年日中戦争で負傷し、右下肢に後遺症があり、歩行が困難であった。終生独身であり、昭和四〇年、警察官を退官後は、風呂屋を買い取り、実姉の甲野まつえと同居して同五五年ころまでこれを経営していた。特別養護老人ホームたちばな園(以下「たちばな園」という。)に、昭和六二年七月三一日から同年八月二〇日まで短期入所、同年九月二五日から同年一二月三日まで長期入所した。本件遺言書は右短期入所中の同年八月四日作成されている。

2  武夫の右たちばな園入所前の状況

武夫は、昭和五七年と同五八年の二回、栄養失調のため、病院に入院したことがあった。そして、足が弱り、同六二年二月ころには殆ど寝たきりの状態となり、次第に老衰が進行し、同年七月ころには意味不明の叫び声が隣家の速水方まで頻繁に聞こえてくるようになった。同年四月の熊野市会議員選挙の投票の際には、男二人がかりで自動車に乗せ、投票所へ連れて行き投票したことがあったが、その際、自分一人で小便をすることができず、すべて、介添えをしてやっと小便ができる状態であった。また、同年五月、理髪店に連れて行こうとした際、家の前で座り込んでしまい、理容師に来てもらってその場で散髪したことがあった。同年七月三一日、たちばな園入所の際、熊野市福祉事務所社会係長南照夫が武夫宅に赴き、同人に出発を促して声をかけても、何ら反応せず、うつろな状態であった。

3  たちばな園入所直後の状況

武夫は、同日、たちばな園に短期入所したが、失禁を繰り返す等の不潔行為があったため、寮母間の話し合いにより、入所当日から、おむつをあてられ、しかも不潔行為をしないようにロンパース(上下つなぎの衣類で、自分で脱いだり、その衣類の中に手を差し込めないようにしたもの)を着せられていた。八月一日、午後一〇時すぎ、大声を発したり、ベッドの柵を外そうとしてガタガタさせたりし、寮母が注意してもそれを繰り返したため、寮母が部屋から出して、観察したが、何回か大声を発したり、意味のないことを言い続けていた。また、八月三日午前三時ころには、「明かりをつけよ仕事はできん」等大声を何度も発したことがあった。

4  たちばな園入所中の状況

(一) たちばな園では、入所すると、まず三日ないし七日間程度寮母室近くの寮母に目の届く部屋にいれ観察し、その観察結果をふまえ入所者の状況にあった部屋を決めているが、武夫の場合は、退所まで寮母室近くの部屋であった。

(二) 武夫は一応簡単な日常会話は可能であるが、表面的な受け答えの域を出ていない。話しているしりから忘れている状況であった。例えば、寮母が姉さん(まつえのこと)が面会に今きとったやろと聞いても、面会にきていたこと自体忘れている状況であり、会話能力、記銘・記憶力の障害が存した。

(三) 武夫の夜中の大声は、たちばな園退所まで続き、昼夜の区別が出来ていなかった。常時失禁の状態であり、着脱衣、排便、排尿、入浴行為等の障害が存し、日常生活で全面的介助を要する状況であった。

二前記当事者間に争いのない事実に〈書証番号略〉並びに南証言、原審における仲森廣光の証言(以下「仲森証言」という。)、原審及び当審における本多久男の証言(以下「本多証言」という。)、当審における新谷己代史の証言(以下「新谷証言」という。)、原審における被控訴人本人尋問の結果、原審及び当審における控訴人一郎本人尋問の結果(以下「控訴人一郎の供述」という。)に弁論の全趣旨を総合すると、次の事実が認められる。〈証拠判断略〉。

1  控訴人一郎は、明治四三年生れで弁護士、検事、判事の職歴を有し、退官後昭和五〇年一二月ころから津市で弁護士をしている。控訴人一郎の旧居宅は武夫の生家の隣りにあり、両家の墓地も隣接していたことから、子供のころは一歳年長の武夫と仲良くしていた。しかし、旧制中学卒業後それぞれの道を歩み、控訴人一郎が戦後しばらくの間熊野市に居住していたとき、武夫から亡父幸次郎の相続財産を、姪に当たる被控訴人が代襲家督相続により全部取得したことについて相談を受けたことがある位で、概して疎遠であり、年一回位帰郷した時に道で武夫に会う程度であった。

2  被控訴人は昭和三二年五月結婚し九鬼姓となったが、その際、亡幸次郎の相続財産について母とらの、武夫及びまつえらが話し合い、右相続財産のうち宅地四筆、畑六筆、山林五筆、建物二棟を武夫に贈与することで話し合いが成立した。

そして、被控訴人と武夫、まつえとはその後も普通に親戚付き合いをしていたが、武夫が栄養失調で入院した後は、被控訴人が武夫、まつえのもとに食事を運ぶ等していた。

3  控訴人一郎は昭和六二年七月三〇日、墓参の際、知人から武夫が寝込んでいることを聞いて武夫宅に立ち寄ったところ、同人が鶏を放飼いにし、新聞紙やゴミを散らかし、臭くて汚ない部屋の中に寝ており、同居の姉まつえも八一歳の高令で介護能力がないので、施設に緊急入所させることを考え、かねて武夫とも知り合いの熊野市議会議員仲森廣光に協力を求めて、早速同市福祉事務所へ相談に行った。

控訴人一郎及び仲森は、福祉事務所も、まつえが特別養護老人ホームたちばな園への入所に同意せず、困っていることを知って、同日まつえを説得してようやくその同意を得た。

4  同月三一日、武夫はたちばな園に短期入所することになった。控訴人一郎は市役所で武夫の固定資産評価証明書を取得して財産を調査し、同日及び翌八月一日の二日間、約一時間ずつ武夫に面会し、同人の後継者及び財産の問題について話合い、武夫及びまつえの扶養看護と両名の葬祭の主宰をすることを条件に、本件不動産を含む武夫所有の全財産を控訴人一郎に包括して遺贈するように積極的に働きかけ、その結果、控訴人一郎は武夫が右遺贈及び遺言書の作成を承諾したものと理解していた。

そこで、控訴人一郎は翌二日津布に戻り、知人の村林公証人から本多久男公証人を紹介され、翌三日ころ、同公証人に本件遺言の内容を説明するとともに、固定資産評価証明書等を手渡し、熊野市へ出張して遺言書の作成方を依頼し、その打ち合せをした。その後同控訴人は、たちばな園に赴き、四日に本件遺言書を作成する旨を武夫に伝えた。

なお、仲森はまつえに対し、同月二日ころ、武夫の実印を借用したい旨伝えたが、まつえはこれを断り実印を渡さなかった。

5  同月四日午前一〇時半ころ、本件遺言書作成のため控訴人一郎、本多公証人、仲森のほか同人から呼出された市職員新谷己代史の四名がたちばな園に集った。本多公証人は、当日になって遺言者が特別養護老人ホームに入所していることを知らされた。武夫は車椅子に乗り職員に押されて入室し、控訴人一郎は本多公証人に武夫を紹介した後退出した。同公証人は仲森、新谷を立会証人として本件遺言書作成手続を開始し、武夫に本人の確認と遺言意思を確認し、証人欄等わずかな部分を残し、予め控訴人一郎から聞いて遺言の内容をタイプした原稿の一部を武夫の前に置き、これに基づいて内容を読み聞かせ、武夫の承諾を求める方法により本件遺言書を作成していった。

武夫は、本多公証人に紹介されて自ら氏名を名乗り、同人から本件遺言書中の不動産の表示32、33の建物について聞かれたとき、居宅だったが今は無い旨答え、仲森が遺贈物件の地名について尋ねたときその場所を述べたことがあったが、自ら発言したのはその程度であって、本件遺言の趣旨、内容、及び遺贈の対象物件である三五筆の不動産について本多公証人が質問すると、武夫は「はい、そうです。」とか、ただうなづくのみで、遺言の内容を自ら陳述するわけではなく、また立会証人が遺言者の真意を確認することもなかった。

本多公証人は、かっての上司で弁護士である控訴人一郎を信頼し、予め準備した原稿のとおり相違ないことを認めて事務を処理し、それ以上に武夫の弁識、判断能力にとくに留意して慎重に真意の確認をした形跡は窺われない。

本件遺言書の作成手続は約一時間で終了したが、武夫が自署した名下には控訴人一郎が入所手続のため所持していた印鑑が使用されたため、本多公証人は右印鑑につき印鑑登録証明書を本日中に提出してほしい旨要請し、仲森が至急その手続を行うことになった。

6  仲森は直ちに熊野市役所に赴き、武夫の代理人として、同人の印鑑登録の廃止申請及び右印鑑を実印とする印鑑登録申請をし、本人の意思確認のための印鑑登録照会書をたちばな園に速達で郵送するよう市職員に依頼した。そして、仲森は、右照会書が武夫に渡されるや、その回答書欄に署名させ、これを熊野市役所に持参して、同日武夫の印鑑登録証明書を取得し、これを右印鑑とともに本多公証人役場に郵送した。

その後、控訴人一郎は本多公証人から本件遺言書正本と右印鑑の交付を受けたが、これらを武夫に渡さなかった。

7  翌五日、たちばな園の南園長が武夫に対して、昨日の出来事について尋ねると、武夫は、何か書いたような気がする旨答えるのみであった。

控訴人一郎は、同月一九日、たちばな園に赴き、武夫を引続き預ってほしい旨相談したが、福祉事務所は、まつえの承諾がなければ延長できない旨回答した。そのため翌日、武夫は短期入所期間の経過により退園したが、控訴人一郎から苦情を申述べてきた。翌二一日、南係長が武夫方に赴いたとき、武夫は質問に対し、「あぁ」とか「えぇ」とか言うのみで、同月四日の出来事について、まつえが問い質しても何らの記憶がない様子であった。

8  控訴人一郎は同月二四日、武夫を尾鷲市の第一病院に入院させようと自宅に赴いたが、まつえが強く反対したため入院させることができなかった。武夫は、同控訴人とまつえの右やりとりの際中も黙って側に居るだけであった。

9  まつえは、間もなく武夫の実印が変更されたことを知り、同月二九日、武夫を代理して同人の印鑑登録廃止申請及び新たな印鑑登録申請をした。なお、右各申請についての代理人選任届及び印鑑登録照会書に対する回答書には、武夫の署名がなされているが、殆んど判読困難である。

同日以降、まつえは熊野市役所の市民相談係に再三赴き、遠縁に当たるものが判断力の弱い弟を騙して印鑑を偽造し、勝手に遺言書を作成して財産を横領されそうになった旨述べ、その処置について相談し、担当者から新規に公正証書遺言を作成した方がよいとの指導助言を受けていた。

10  その後、まつえが武夫の長期入院に同意したので、武夫は同年九月二五日、再びたちばな園に入所することとなったが、武夫自身の意思は確認できなかった。

しかし、同年一二月三日、まつえは武夫を退園させる旨強行に主張したので、たちばな園は一週間の外泊許可の形式をとって一時帰宅させたが、まつえが引続き入所させておくことを拒んだので、同日付けで退所の扱いになった。

しかし、同月一四日、武夫は数日間飲食物を経口摂取せず、脱水症状で意識もうろうの状態となったため、熊野市の協立内科外科医院に緊急入院したが、翌年一月気管支肺炎を併発して、同年二月一日心不全により死亡した。

以上の事実が認められるところ、〈書証番号略〉(東京都老人総合研究所による異常な知能衰退の臨床的判定基準)では、老人痴呆の重症度を軽度、中等度、高度、最高度の四段階に分類し、①通常の家庭内での行動はほぼ自立でき日常生活上の助言や介助の必要は軽度で、日常会話・意思疎通はほぼ普通だが、同じことを繰り返して話したり尋ね、他に興味や関心が乏しく、能力低下が目立つものを軽度とし、②知能低下のため日常生活が一人ではおぼつかなく、助言や介助が必要で、簡単な日常会話はどうやら可能だが、意思疎通は不十分で時間がかかり、金銭管理、服薬等に他人の援助が必要なものを中等度とし、③日常生活が一人では無理で、その多くに助言や介助が必要であり、逸脱行為が多く目が離せない。また簡単な日常会話すらおぼつかなく、意思疎通が乏しく困難で、さっき言ったことすら忘れるものを高度とし、④自分の名前や出生地すら忘れる、身近な家族と他人の区別もつかないものを最高度としていることが認められる。そこで、前記認定のたちばな園入所前後の武夫の異常な言動及び遺言時の状況等を右判定基準に照らして検討し、〈書証番号略〉及び南証言を併せ考えると、武夫は、生前専門医の診断を受けていなかったが、本件遺言当時は正常な判断力・理解力・表現力を欠き、老人特有の中等度ないし高度の痴呆状態にあったものと推認される。なお、たちばな園入所時に作成された小山医師の診断書〈書証番号略〉の記載は、〈書証番号略〉に照らして採用できないし、〈書証番号略〉は、家庭裁判所調査官が武夫の死後、控訴人一郎とまつえら間の家事調停事件につき、調停への導入調整のため作成された調査報会書であるから、右記載もまた右認定判断を覆すものではない。

しかして、前記認定のとおり、武夫には記銘・記憶力の障害があり、簡単な日常会話は一応可能であっても、表面的な受け答えの域を出ないものであり、南園長が本件遺言書作成の翌日、武夫に対して昨日の出来事を尋ねても、本件遺言をしたことを思い出せない状況であったこと、たちばな園入所に際し、南係長が出発を促しても反応がなく、うつろな状態であったこと、武夫は控訴人一郎と、これまでほとんど深い付き合いがなかったので、本件不動産三五筆を含む全財産を同控訴人に包括遺贈する動機に乏しいし、全財産を遺贈し、武夫姉弟の扶養看護から葬儀まで任せることは重大な行為であるのに、姉まつえには何らの相談をしていないのみならず、控訴人一郎から話が出てわずか五日の間に慌しく改印届をしてまで本件遺言書を作成する差迫った事情は全くなかったこと等を総合して考えると、武夫は、本件遺言当時、遺言行為の重大な結果を弁識するに足るだけの精神能力を有しておらず、意思能力を欠いていたものと認めるのが相当であり、本件遺言は無効というべきである。

三なお、控訴人らは、仮に、本件遺言が方式違背の瑕疵により無効であるとしても、本件不動産を含む武夫所有の財産全部につき、死因贈与契約が成立した旨主張するところ、控訴人らの右主張が、昭和六二年八月三日の時点のみならず、控訴人一郎が武夫と折衝をした同年七月三一日及び翌八月一日の各時点における死因贈与契約成立の主張をも含むと解しても、前記認定説示の武夫の痴呆症状によれば、同年八月三日はもとより、同年七月三一日及び翌八月一日の各時点においても、武夫は意思能力を欠く状態であったものと認めるのを相当とするから、控訴人らの右主張も採用する余地がない。

第五結論

以上の次第で、甲事件についての被控訴人の請求は理由があり、乙事件についての控訴人の請求は理由がないから、原判決は正当であり、本件控訴はいずれも理由がない。

よって、本件各控訴を棄却することとし、控訴費用の負担につき民訴法九五条、八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官土田勇 裁判官喜多村治雄 裁判官林道春)

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